堂々巡りのような日々を変えたいと思っていても気づかぬうちにつまずいて、アテもなく彷徨う日常。
客観していても、どこかで現実に目を背けているのかもしれない。
核心をついた自由だからこそ、そこを確信することで自己否定につながりさらに悪化することを懸念しては、堂々巡りを繰り返す。
何が悪いってわかっていても、聖域に踏み込めない己の弱さに嫌悪してしまう。
変わった、変われたって想いは幻想だったのか?
なんて想いにも行き着いてしまう。
思案するだけでは変われなくて、思考を作るための行動をできるかどうか。
卵が先か鷄が先かって話じゃなくて、卵も鷄と必要。
だけど卵を用意するには鷄が必要だってこと。
目的を達するには手段が必要なわけで、そのために何ができるかって話になってくる。
目的をハッキリするために手段を用意すること。
それが今とても大切なんだ、目的のための道の数をどれだけ増やせるか。
そこに注力して尽力したい。
結果のための過程だ。
結果も内容もすべてが伴って完成する。
そのためにできることをやっていこう。